ベタニアでの油注ぎ ヨハネ12:1-9&マルコ14:3-9

September 21, 2017

ベタニアでの油注ぎ ヨハネ12:1-9&マルコ14:3-9

2つの福音書を見比べることで、同じ記事が違ったアングルで描かれているのがわかる。今日はこの両方を合わせて話を進める。

背景:場所はエルサレムから約2マイル離れたベタニアの町。時はイエスがエルサレム入城される前夜。シモンの家でイエスと弟子たちはくつろいで食事と会話を楽しんでいた。当時食事をする姿勢は横になって片方を下にし、腕を食べ物に伸ばして、手で取って食べると言う、なんとも行儀の悪い?作法。今なら必ず叱られる。「もっとちゃんとして食べなさい。何?そのかっこうは? 3歳の子供じゃあるまし。}となる。

その時、突然、誰も予期しないことが起こった。一人の女(マリヤ)がアラバスターの壺に入った超高価な純粋のナルドの香油をもってきて、この壺を割って、中の香油をすべてイエスに注いだ。

マリヤはイエスの頭と足にすべての香油を注ぎ切ってしまった。マリヤはテーブルの下にもぐり込んだのではない。先ほど言ったように、イエスは横になっておられたから、その上から頭と足に注ぐことは、かなりたやすかった。そして、マリヤは髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

さてこのナルドの香油の価値を見てみよう。

価 値:

まず石膏の壺は、アラバスター製―アラバスターとは、半透明の白い宝石で、エジプトで産出される高価なもの。お金持が邸宅の装飾品として飾ったようで、これだけでも相当な価値があった。

アラバスターの壺は下部が丸く、先が細く長い容器で、上部はバラのつぼみのような形をしていた。

純粋なナルドは、最も高価で貴重な香水(香油)で、インドから輸入されたもの。ナルドはスパイクナルドの樹木から抽出されたもので、ヒマラヤの山奥で産出された。この香油は通常アラバスターの壺に保管された。

このようにアラバスターの壺もナルドの香油も、とても高価なものだが、マリヤは惜しみなく壺を割って、中の香油のすべてをイエスに注いだ。値段は300デナリとあるが、これは300日分の賃金に相当する。つまり現在の価値なら$60,000はくだらない。ワオ! 高級車が買えちゃう。ベンツ、レクサス、ポルシェ、などなんでも…。それを一瞬にして注いだのだから、弟子たちの嘆きと苦情も納得できる。私がもしこの場にいたとしたら、(絶対にないが…)きっとおんなじことを言っていた。「ああ‥もったいない…。」

マルコ14:4-5

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

 

大体今も昔も男衆は、香水や宝石の価値なんてわからない。価格はあってないようなもので、値段はいくらでも吊り上げられるものと考えている。そこに本質的な価値はあるのか??? 弟子たちもそう思ったかも知れない…?(私個人の意見で、聖書には書いてない。)

しかし、マリヤはイエスを心から純真な思いで、愛し慕っていた。彼女はこの思いを最高の品で表現したかった。それに、覚えているでしょうか? 2週前に話したラザロがよみがえった話を…。そう、イエスが、死んだラザロを生き返らせてくださった。マリヤはその感謝の気持ちを、自分の信仰と行動をもって現した。イエスが彼らの家族にして下さった奇跡のわざー兄弟をよみがえらせ、新しい命を授けてくださったこと。これはいくらお礼を言っても、言い表せるものではなかった。

ナルドの香油注ぎは、マリヤにとってただの贈り物ではなく、彼女の深い信仰を行動で現したもの。それは彼女の持つ献身的な礼拝の形態とも言える。マリヤにとっては礼拝であっても、他の者には無駄としか映らなかった。他人がどう言おうとも、彼女は主を愛し、礼拝し続けた。

ある人達には、私たちの礼拝も無駄としか映らない。また他の人には、特にクリスチャンが少ない日本では、「何のためにそんなことを…?」と言われることもよくある。しかし、主を心から愛する私たちにとっては、礼拝こそすばらしい行為である。神をほめたたえることは、決して無駄ではない。人が地上でできることの中で、最も素晴らしいことが、神を礼拝すること。マリヤはそれを実行した。他人に何と言われようとも…。香油を注ぎ続け、イエスを愛し続け、主を礼拝し続けた。

マリヤの性格は、いろいろな言葉であらわされる。

マリヤは、素晴らしい信仰を持ち、主を愛し、礼拝し、献げ物をささげ、寛容で、献身的で、純真な心を持ち、常にストレートに、一心にイエスだけを見続けた。

イエスはこのマリヤを高く評価し、最高のことばで誉めている。

マルコ14:6-9

すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。…

この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

 

イエスはマリヤの行為を快く受け入れられた。マリヤの愛、礼拝、犠牲、ささげもの、そして油注ぎを、主は受け入れられた。マリヤは何をも惜しまず、彼女の持てるものすべてを主にささげ尽くした。このアラバスターの壺に入ったナルドの香油は、一家の家宝であったかもしれない。1年以上働いてやっと買えるほどの非常に高価な宝物を、マリヤは何のためらいもなく、イエスに捧げつくしたのである。

 

マリヤの行為は、私たちがどのように主イエスに仕えるべきかを教えてくれる。あなたは、「もったいない。」と言っていないか? お金の無駄、時間の無駄、働くなんて無駄と言ったことはないか? すべて主にささげる物で無駄なことは一つもない。

 

·        あなたはマリヤのように、純粋に主イエスを愛しているか?

·        あなたは、犠牲をもってあなた自身を主にささげているか? つまり献身しているか?

·        あなたは自己を捨てて、主を礼拝しているか?

·        あなたは、マリヤのように心から主に仕えているか?

·        あなたは主に対し、出し惜しみをしていないか?

 

次に砕かれること、壊れることを見てみよう。

 

砕かれること:

 

マリヤは壺を割って、イエスに香油を注いだ。一度壊れた壺はもう使えない。外側の壺を壊すことによって、中身の香油が現れる。壊すことはキリストの香りをもたらすことである。同じように、私たち自身も外側の(肉)が壊されない限り、内側の香り(霊)が現れることはない。

壺は細長い首の部分があって、そこが折れるようになっている。これを壊す以外に中のナルドを取り出すことはできない。砕かれることが、キリストの香りを生じさせることであり、砕かれることで、私たちの生きざまを世の中に現すことになる。

普段私たちは壊れることを嫌がる傾向にある。なぜなら、そこに痛みが生じるから…。しかし、そこが聖さにつながる。壊れるつらさを乗り越える事によって、私たちは主にきよめられ、主に豊かに用いられるようになるのである。

 

ある牧師が有名なメガチャーチ(特大サイズの教会)で、説教するよう招待を受けた。この教会の礼拝は毎週テレビで放映されているので、皆さんもテレビで見てご存知かも…。空港で迎えてくれた人が、ゲストスピーカーに、いくつかの注意点を告げた。「わが教会は、皆が集まってフィーリングが良くなることを第一としている。気分や感情が良くなりたい人たちが礼拝している。従って十字架のことは説教で話さないでほしい。また罪についても触れないように。絶対に苦痛や砕かれる話はしないでください。」

十字架も罪も砕かれることも話さないなら、一体何を話すのか? この教会では今週もまた、フィーリング・グッドな幸せの説教が続いている。

 

もう一つのたとえは、パンを作るときに、砕くことがどれほど大事かを表す。

まず、畑から小麦を収穫するときに、すべてを刈り取る。束ねた収穫から、もみ殻を砕いて中の小麦の粒を取り出す。その小麦の粒を細かく細かく何度も砕いて粉にする―それがフラワー(小麦粉)になる。その小麦粉を今度は何度も練り上げたものを焼いて、ようやくおいしいパンが出来上がる。最後にパンを割いて家族に配り、やっと皆が食べることになる。そこに至るまでに何度砕かれたことか。

 

砕かれることは私たちの信仰生活の上でも必要。逆に言えば、砕かれていないものは神にささげることはできない。砕かれた壺に犠牲の価値がある。そこに芳香なナルドの香りが出現する。あなたが砕かれた時、乾ききって注ぎが必要とされ、その時にあなたは主の香りをもって、仕える者に変えられて行く。

 

あなたはいかがでしょう?あなたは砕かれているか?自分で砕かれていると感じるか?砕かれるとは、一体どうすることか? 今日の聖句がこう教えてくれる。

 

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 詩篇51:17

 

砕かれた心とは、謙遜で悔い改めた人の心のこと。あなたは、謙遜な心をお持ちか? 謙遜に神に仕えているか? 謙遜に人に仕えているか? 心の片隅に傲慢君は住んでいないか? 自我やエゴイズムは完全に砕かれてこそ、キリストの愛とキリストの香りが放たれる。そのようなキリストの香りについて、第2コリント2:15にこう書かれている。

 

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

 

最後に:

さきほどイエス・キリストの香りについて語ったが、このように考えることもできる。主イエスは純粋なナルドの香油を多量に(約300グラムを)頭と足、つまり全身に油注ぎされた。この香油は非常に強い芳香を放ち、何日もその残り香が漂ったはずだ。つまりイエスが行くところどこにも、ナルドの残り香がイエスと共にあった。イエスがエルサレム入城された時も、その何日か後、捕縛された時も、裁判にかけられ、むち打ちたれた時も、十字架を担がされ、ゴルゴタに向かう時も、残り香はなお漂っていただろう。そして十字架にかかって息を引き取る時も、墓に埋葬されるその時まで、その芳ばしいナルドの香りが続いていたことだろう。香りは主イエスの髪の毛、足、そしてその着物にもしっかり残っていただろう。埋葬される時まで、ナルドの香りはイエスと共にあった。マリヤはそのことを知らずに、埋葬の準備をしていたことになる。イエスはこう言われた。

 

「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」ヨハネ12:7

 

私たちは今日、マリヤがイエスに対して行った愛の行為をみた。それは彼女の信仰、愛、礼拝、犠牲、ささげもの、献身、純真な心など。イエスは彼女の功績をほめ、皆にこのように預言した。

 

「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 

そして、そのとおりになった。今日、私たちは2000年前のマリヤの話に触れ、キリスト信仰について再び学ばされた。また、これからも永遠にわたって、世界中で、マリヤの功績が語り継がれていくことを、私たちはこのみことばの個所から知っている。

「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

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